日本の司法においては、一部で知られた事実ではありますが、かけられた嫌疑を、早く認めてごめんなさい、すればするほど、課される制裁が軽くなります。そして、裁判の判決の日まで犯行を認めずに否認しとおしたら、裁判所の判決ではしばしば、やった奴が自分の罪も認めずに強情に否認をし続けるとはけしからんので罪を重くするとかというコメントが出てきます。裁判員制度の導入まではこのような判決が横行していましたし、裁判員制度が導入されてからも変わったという話は聞かないので、ひょっとしたら裁判員もそういう考えに同調しているのかもしれません。
でも、本当に罪を犯した人が、しらばっくれてやってないと言い逃れるのは確かに「盗人ふてぶてしい」という評価にふさわしいと思いますが、もしこれが冤罪だったらどうなるでしょう? 警察も検察も誤解して訴えたのに、無実を確信して、なんせやってないんだから、と思って裁判所で主張したら、裁判官が「けしからんので罪を重くする」と判示するこの理不尽。
さらにその前段で、判事と同じような専門的訓練を受けてきた検事が同じような判断をしているからこそ起訴されるわけです。実際、被害者の証言に多くを依存するがために冤罪の温床と言われる痴漢事件などでも、最初からごめんなさいした人は起訴猶予になり、最後まで争った人は起訴される実態があります。ごめんなさいした人でも、争った人でも、やったことの中身は変わらないわけで、そこで差をつけるのが本当に合理的なのかどうかという疑問があるわけですが、実態的には、最初にごめんなさいするほうが有利な運用がされています。いみじくも、冒頭の記事に掲載されている大学生は保護観察処分になっているわけですが、これが最後まで否認して争ったら、嘘のIPアドレスの証拠で起訴され裁判にかかり、今頃ひょっとしたら刑務所にいたかもしれないわけです。
とすると、問題は、単に警察の強引な捜査だとかでっちあげにあるだけではなく、そもそも日本の司法自体に、実際に罪を犯していようがいまいが、本人にとって罪を認めるほうが得であるというインセンティブシステムが埋め込まれていることにあります。闘ったらブタ箱で、認めれば起訴猶予の保護観察処分、ということであれば、普通なら認めますよね。警察の誘導に従ってでも。問題なのは警官の誘導だけではなく、その誘導を力あるものにしている日本の裁判の判断そのものにあると思うのです。
そして、そのような日本の裁判の判断を、日本人は最高裁判所裁判官の国民審査制度を通じて認め続けてきました。またもし裁判員制度によってもこのような判断の仕方をひっくり返せないのであれば、警察・検察にいったん目をつけられたとたんに、嘘であろうがホントであろうが罪をとっとと認めたほうが有利である、という冤罪生産システムを、日本国民として支持し続けているということになります。
警察の愚かさを指弾するのはいいけれど、最後はそれ、自分たちにかぶってくるんですよ?
”- 例の偽装メール事件が示唆するのは、警察の無理筋捜査だけじゃない - 常夏島日記 (via toronei)